教育的配慮 ?2005年09月01日 22:10

読売新聞から「「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か」
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050831i106.htm

どこがどう「教育的配慮」なのか、さっぱりわからない。事なかれ主義としか思えない。
実話を基にしたユニークな漫画で、作者の関係者(身内?)以外は人物が特定できないような、一般的な書き方をされていて、充分に配慮されていると思うゾ。そもそもフィクションであり、実在の人物と限りなく似ていたとしても、これは作り話なのだ (建前上は)。これ以上どうしろって言うんだろうか ?
もしも市・学校側の主張が通ったら、自分の子のことを話題にすることも、一般の教育問題のドキュメンタリーやルポルタージュも、不可ということになる。
もしかしたら「あそこな××なのだそうだ」という、学校側に不都合な噂をながされることを、教育的配慮という錦の御幡のもとに口封じをしようということか。これでは学校という組織体の活動内容について、外部からの検証ができないということでもある。オカシナことをしている教師がいたとしても、外部からの告発を禁止するということか。なるほど、自分達が絶対的に正しくて、他所からの口出しはいっさい受け付けないという、傲り高ぶった体質なのだろうか。

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 文化庁メディア芸術祭賞を受賞した漫画「毎日かあさん」を巡り、作者の漫画家西原(さいばら)理恵子さん(40)と東京・武蔵野市の間で論争が起きている。
 西原さんの長男(8)が通う同市立小学校が、西原さんに「学校を作品の舞台にしないでほしい」と申し入れたためだ。
 「表現の自由への圧力」と抗議する西原さんに対し、市側も「正当な教育的配慮」と譲らない。双方が文書で主張を繰り返す事態となっており、9月2日の同市議会でも取り上げられる予定だ。
 西原さんは、「ぼくんち」「恨ミシュラン」などの作品や、放映中のNHK連続テレビ小説「ファイト」のタイトル画で知られる。
 「毎日かあさん」は、武蔵野市やその周辺を連想させる街を舞台に、西原さんの長男や同年代の子ども、母親を思わせる登場人物の日常をコミカルに描いており、2002年10月から毎日新聞で週1回連載中。連載をまとめた単行本も既に2巻が毎日新聞社から発行されている。昨年、文化庁メディア芸術祭賞、今年は手塚治虫文化賞を受けた。
 問題となったのは、授業参観の場面。主人公の母親が、落ち着きのないわが子を含む児童5人を「クラスの五大バカ」と表現し、ユーモアを交えつつ、子どもの成長を見守る内容だ。
 この場面が紙面に載った直後の昨年11月、長男の担任の女性教諭(40)が西原さんを学校に呼び出し、「迷惑している」「学校を描かないでほしい」と注文をつけた。
 西原さんは翌12月、毎日新聞社の担当者と同小学校に出向き、校長らに「保護者だからといって、編集者を通さず作者を直接呼びつけるのは非常識だ」と抗議。校長らは「学校に落ち度はない」と主張したという。
 西原さんは、父母の一部から「学校とトラブルを起こすならPTA活動に参加しないでほしい」と告げられたのを機に、今年6、7月、弁護士を通じて市側に「作品はあくまでフィクション」「公権力による表現の自由の侵害ではないか」などの文書を送った。これに対し、市側は、「他の児童や保護者への配慮をお願いした」「作品中に『武蔵野市』の固有名詞もあり、児童の人権に教育的配慮を求めることは当然」などと、8月までに2回、文書で回答した。
 西原さんは「フィクション作品の内容に介入するのは納得できない。子どもを学校に預けている立場上、作品を描くこと自体をやめろと言われたに等しい」と憤る。また、毎日新聞東京本社編集局は「毎日かあさんは西原さんの経験に基づいたフィクションで、内容については人権やプライバシーに十分配慮して掲載している。学校側には納得してもらったと認識している」としている。
 一方、同市教育委員会の南條和行・教育部長は「保護者を学校に呼ぶことは珍しくない。表現の自由を侵害してはいない。学校には不特定多数の児童がおり、配慮するのは当然だと思う」と話している。
(2005年8月31日14時32分 読売新聞)
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大学院改革2005年09月08日 20:39

excite ニュース経由の共同通信「5年計画で制度改正 大学院改革で中教審答申」
http://www.excite.co.jp/News/society/20050905161704/Kyodo_20050905a449010s20050905161706.html
「5号館のつぶやき (2005-09-05)」 http://shinka3.exblog.jp で知りました。

えっとこの記事によると大学院が養成すべき人材は、創造性豊かな研究者や法律家などの高度専門職業人、大学教員、ですか。で、そのための手法が三つあげられているのね。
まず教員の指導力アップのための研修って、どんな研修をするんでしょうね。効果あるのか、疑問がいっぱい。修了要件の見直しは、ハードルを高くするのか低くするのか、どの方向に見直すのかしら。大学生の学力低下に合わせて、ハードルを下げる方だったならば、それじゃあ目的とする人材を養成したことにならないでしょ。で、三つ目の短期在学コースって、論文博士の廃止とセットってことかな。まともな論文審査をするのなら、論文博士って悪いとは思わないのだけど、ムリヤリ短期在学させて、いったい何をしようというのか、時間の無駄じゃないの ?

答申の全文「新時代の大学院教育-国際的に魅力ある大学院教育の構築に向けて-」が pdf ファイルで発表されているらしい。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501.htm

さて本編をナナメ読みして目についたキーワードが、「高度専門職業人」と「知識基盤社会」。なにこれ ? 作文としては、よくできてるなと。いろいろなことを言っているが、でも育成した人材を受け入れる社会の意識というものの改革も必要だと思うゾ。米百俵のたとえじゃないけど、学問に価値があるとの社会的な意識がなくっちゃ。
そしてざっと見た印象では、教育にかなりの力を入れるようにということか。人材育成ということね。でもその力の入れ方としては、教育カリキュラムをしっかり作れということで、これって要するに教育のマニュアル化ということ ? これで「創造性豊かな」人材が育つのかなと、そこはかとない疑問が ...... いくら学校で教員が学生の尻をたたいても、たたかれた方が、勉学にメリットを感じなくちゃ、モチベーションが維持できない。
お役人は下から上までの学校の制度をいじることは得意かもしれないけど、そして制度をいじれば見かけ上何かやったと自己満足できるかもしれないけど、そういうことだけでは改革の実体がともなわないような気がする。

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 中教審(鳥居泰彦会長)は5日、大学院の教育体制を強化するため、2006年度から5カ年計画を立て、集中的に制度改正と財政支援を進めることが必要だとする答申を中山成彬文部科学相に提出した。文科省は本年度中に計画を作成する。
 答申は、大学院が養成すべき人材として、創造性豊かな研究者や法律家などの高度専門職業人、大学教員などを挙げ、目的に沿った教育体制作りを求めている。
 5カ年計画では、制度改正として(1)教員の指導力向上を目指した組織的な研修の実施(2)修士課程と博士課程の修了要件の見直し(3)博士課程短期在学コースの創設−などを提示。文科省は大学院設置基準の改正を行う。
[ 09月05日 16時17分 ] 共同通信
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ふさわしい2005年09月09日 21:28

毎日新聞「なみおか映画祭:今年限り ポルノ上映で補助金打ち切り」
http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/news/20050909k0000m040136000c.html

あ〜あ、という感じ。ただひとことあるのみ。「映画祭という文化、青森市にはふさわしくないのね。」 ......おっとっと、「映画祭という文化には、青森市はふさわしくないのね。」
(9/12 に追記)

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 全国の映画ファンに親しまれている青森市の「中世の里なみおか映画祭」の実行委員会は8日、映画祭を大幅に縮小し、今年で最後とすることを決めた。日活ロマンポルノを特集する企画に、市教委が補助金130万円を打ち切り、会場も貸さなくなったため。文化庁は日活ポルノの芸術性を認めて補助を決めていた。
 映画祭は92年に「映画館のない町で国内にないような映画祭をやろう」と青森市と合併する前の旧浪岡町で始まり、今年が14回目。これまで国内外からフィルムを買い取るなどして上映してきた。今回は11月19日から23日まで、日活の巨匠と言われた神代辰巳監督を取り上げ、22作品を上映する予定だったが、内容を知った市教委が「補助事業にふさわしくない」として、実行委に補助金を出さないことを伝えていた。
毎日新聞 2005年9月8日 22時29分
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憲法非改正論2005年09月13日 21:43

与党がこれだけの大勝利なのだから、そのうち話題になると思って、メモ的に書いておく。

まず、Yahoo News 経由の毎日新聞「<新議員アンケ>改憲派が84% 10年で倍以上に伸長」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050913-00000012-mai-pol

 衆院選の期間中に毎日新聞が実施した全候補者アンケートを基に、当選した新議員480人の考え方を集計したところ、憲法を「改正すべきだ」とする改憲派が402人と84%に上り「改正すべきでない」とする護憲派を圧倒した。96年の衆院選後、アンケートで41%だった改憲派は、約10年で倍以上にまで伸長した。 (毎日新聞) - 9月13日3時2分更新

憲法の規定により、その改正は議員の 2/3 の同意によって発議され、国民の投票の過半数によって決する。今回の衆議院総選挙の結果、与党が 2/3 超の議席を確保したので、そういうことも可能になってきたわけだ。まあ参議院ではそうともいかない事情があるけどね。
で、もともと今の憲法は太平洋戦争に負けて、連合国に押し付けられたものだから自主憲法を持とうとか、憲法九条を変えて軍備を持てるようにしようとか、自衛隊は違憲か合憲かなどなど、さまざまな議論があるようだ。あるいは、政府の情報公開とか個人のプライバシーの保護などを盛り込むようにとか、そっち向きの改憲の話もある。他国の例と改正の頻度を比較したりして、制定以来全く変わっておらずに時代遅れの部分もあるのではないか、時代に合わせて変えていかなくちゃいけないとか。
ハッキリ言って、私も昔はそういう考えも少しはあった。でも立花隆の「メディアソシオポリティクス」(第15回あたり) の議論を読んで、とりあえず堅持に考えが少しシフトした。ひとことで言えば「壊れていない車は修理するな」である。これは九条に限らない。

そもそも憲法とは何なのか、このことについての意識も、自分としては明確になってきた。昔は何となく、憲法とは国の根幹をなす規則だと思っていたが、今から考えるとその本当の意味が分かっていなかったようだ。これも有名な話だが、かつての西ドイツには憲法がなかった。東西に分裂した状態にあったので、ドイツとしての憲法は無くただ西ドイツ基本法というものがあったというわけだ。この場合には冷戦構造という国際政治的な理由もあっただろうが、この基本法が実質の憲法と見なされていたと認識していた。憲法とは、このような名称からイメージされる「国の根幹をなす規則」ということであった。そう考えていたので、とても重要な規則ではあるが、他の法律と同じように必要ならば改正しても良いのではないかと、昔は考えていたのだ。
しかしある時、次のような議論を見て、考え方が変わった。すなわち普通の法律は、国民を支配するために権力者側が作成して、そして国民がそれを守るというものだが、しかし憲法は為政者側が守るべき規則だと。権力を持った為政者が、弱者である国民を好き勝手にしないように枠をはめるものが、憲法であると。これは憲法の発祥と考えられるマグナ・カルタが、民衆が時の国王に突きつけたものであるという例を見れば、非常に良く分かる。
したがって、為政者の行為にシバリをかけて国民の立場を守るためには、立法府の議員や行政府の内閣・大臣らの言うがままに憲法を改正してはいけないのである。彼らは、自らの縛めをときたくてしょうがないのである。
そういう点で見ても、憲法には為政者に守らせるべき規則を記載すべきである。一般国民の誓いなどを載せなくてもいい。

またこれまで日本は、解釈改憲やら具体的行為を決める下級の法令の改正で、そこそこうまくやってきたではないか。解釈改憲なんていう余地を残してしまっては、ずるずると何でもアリになってしまってよろしくないと、昔は思っていた。しかし今では逆に、使い方を工夫すれば、現行憲法でも結構イケルと思っている。例えば個人のプライバシーとか環境権とかいちいち明示しなくても、基本的人権の尊重として一括して考えれば良いではないか。明示していないのだから、逆にこれらを排除する理由がないわけだ。人権の意味も時代と共に変わるというわけだ。
今回の選挙の結果を見て、煽動的な為政者の劇場型政治にだまされやすい、考えない国民であるとの危惧をもった。ムードに流されて改悪の愚を犯すくらいなら、現行憲法を堅持する方が、何万倍もましである。

実験データ2005年09月14日 15:50

毎日新聞「東大教授論文:実験データに疑問 発表後に撤回、訂正」 http://www.mainichi-msn.co.jp/science/kagaku/news/20050914k0000m040088000c.html

「あーぁ、何やってんだろうかねぇ」とアキレルのが第一印象。次に思ったのが、生データまたは実験の記録を紙のノートに残さないなんていう大学院助手は、実験科学者失格で、研究者としての基本ができていないゾと。 そして最初の疑問が、そもそもどうして発表された論文に疑問が持たれ、学会として調査の必要アリということになったのだろうか ? そして第二の疑問が、データはどこへ ? ということだ。

実験ノートの重要性は基本中の基本であって、学生実験の指導でも真っ先にいうことだ。まずはノートの種類から筆記具についてまで。それから、ノートの使い方とか書き方まで。 もちろん、測定機器から出力される数値の列などで、ノートに記載することになじまないものもある。しかしそれでもグラフとして紙に記録したモノとか、フロッピーディスク (今どきは CD-ROM かな) などの電子媒体に記録したモノとして残しておくだろ、フツー。 再現が難しい実験であればなおのこと、元データは何重にもバックアップしなくちゃ。ねえ。
しかし最近の情報機器の発達により、紙のノートではなく電子ノートともいうべき、コンピュータ中に記録を残すという方式のソフトウェアもあるらしい。それなりのメリットもあるかもしれないが、どうも違和感があって、広告などで見かけてもスルーしていた。 そういう最新機器・システムの弊害なのだろうか ?

いやそうとばかりも言えまい。自分の行なった実験・研究に愛着があれば、実験のオリジナルな記録である実験ノートを捨てたりしないでしょ。その点からも、この人たちは研究に熱意がないのかなぁと。

さてところで、論文として発表された内容が、実はその後の研究で誤りであることが分かるなんて事は、しばしばあることだ。論文として発表されたものが追試され、あるいは別の実験結果との整合性を検討され、その結果として以前の発表が否定されるかもしれない。それ自体には何のやましいところもない、こうやって科学は発展してきたのだから。 この様な過程を経て、いったん発表された論文の内容が訂正されたとしても、実験データ自体は何の影響も受けない。実験事実は否定しようがないからだ。ただその解釈というか、取り扱いが変わるだけである。
しかし仮にこのようなことがあっても、それは単に研究者同士の討論によって一歩一歩自然の謎が解明されていくだけである。 かつて電気分解による常温核融合のフィーバーが起こったとき、最初に常温核融合を主張した研究者たちの実験結果を再現しようと、世界中の科学者たちが挑んだが、かなわなかった。そして、うむを言わせない明確な追試データを、常温核融合を主張した研究者たち自らが発表することもできなかった。 これでも学会などが乗り出してきて調査したわけではなく、科学者たちの (通常の手法による) 相互批判・検証という努力によって、主張の正否が判断されただけだ。

そういうわけだから、研究内容の正当性について、当該学会が乗り出してきて調査するというのは、相当に異常な事態に見える。

ところでこの毎日新聞の記事は、研究の倫理に詳しいとされる人物のコメントが、末尾に付け加えられている。たいして意味があるとも思えないアタリマエの内容のものをワザワザつけなくちゃいけないと考えるって、毎日新聞の記者・編集者は研究を何だと思ってるんでしょうね。

 東京大大学院工学系研究科(平尾公彦研究科長)は13日、同研究科の多比良和誠(たいらかずなり)教授(53)らの論文4本について「実験結果を裏付けるデータがなく、結果の信頼性を確認できなかった」と発表した。論文4本のうち2本は英科学誌「ネイチャー」に掲載されたが、その後、撤回や訂正されていた。同研究科は多比良教授に再実験による物的証拠の提出を求めたうえで、不正の有無を判断する。
 多比良教授は、たんぱく質合成にかかわるRNA(リボ核酸)研究の第一人者とされ、最先端分野の研究者。03年6月の「ネイチャー」論文では、ヒトのRNAの一種が神経細胞形成にかかわる遺伝子を制御していると主張した。しかし、日本RNA学会は今年4月、これらの論文12本について、「(論文の根拠となる)実験結果の再現性に疑義がある」として、同大に調査を依頼した。
 工学系研究科は調査委員会を設置し、論文4本について調査した結果、4本すべてで計画やデータが記載されている実験ノートがなかった。実験データが入っているコンピュータも、データのバックアップをとらず廃棄していたという。調査委は多比良教授や、実験を担当した助手らの聞き取り調査も行い、実験結果を裏付けるものはなかったと判断。今月8日、論文12本のうち撤回した2本を除く10本について、再実験した上で、結果を提出するよう要請した。
 平尾研究科長は「実験に不正があったと結論付けてはいないが、潔白の証明は出来なかった。学会から大学にこのような調査の要請があること自体が極めて異例で、遺憾だ」と話している。
 多比良教授は毎日新聞の取材に対し「助手は実験データをノートではなくコンピューターに記録し、重要でないデータは定期的に処分していた。この方法は不適切だし、結果を裏付ける物的証拠の一部が出せないのは残念だ」と話した。一方で「論文で提案した概念自体が誤っているわけではなく、我々が提供した実験系で成果を出している研究グループもいる。今後、疑われたデータを再試験で実証する」と反論している。【佐藤岳幸、元村有希子】

 ▽研究の倫理に詳しい山崎茂明・愛知淑徳大教授の話
   独創的な結果を裏付けるデータなのに、あまりにも管理がずさんだ。研究者の基本的な動作を怠っており、結果が再現できないとなれば、不正があったと疑われても仕方がない。実験担当者は助手だが、教授は実質的に研究論文を代表し、データの管理も含めて責任がある。研究には多くの税金も使われている。一学会、一大学の問題ではない。
(毎日新聞) - 9月13日22時44分更新

(2005-09-15 追記)
ああ、なるほどねえ。捏造の疑いが、かなーり濃いということなのか。